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『金毘羅山名所図絵会』に次のようにあります。
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとり(漁)をし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる。
塩飽とは、この沙弥島を含む塩飽諸島の事です。
この文章は、春・秋の漁民の金毘羅山参拝を記したもので、いわゆる〈家船(えぶね)〉を表したものです。〈家船〉とは日本の海上漂泊民の総称で、瀬戸内海では特に〈船住い〉〈船所帯〉等と言われ、地域名から〈ノウジ〉〈フタマド〉等とも呼ばれていました。瀬戸内海や西九州が彼らの本拠地でした。
彼らに本拠地はあるものの所有する土地はなく、一年のほとんどを漂泊しながら漁をし、船の中で家族と共に暮らしました。
たまに陸に上がっては、漁で得た魚介を、陸で生産された生活用品と交換し、また海へと帰ります。
〈家船〉は、昭和中期ころまではかろうじて見られましたが、今はもう陸上がりして(途絶えて)しまいました。彼らの出自は現在も議論が続きますが、海賊や倭寇、古代海人の末裔とも伝わります。